プロダクションノートProduction Note
人間も動物も同様に原発事故で被災した被ばく牛の殺処分をめぐる抗いは、
経済至上主義への警鐘だろうか…
故郷を追われた住民へ襲い掛かる棄民政策!
降り注いだ放射能で最大15万人を超える住民が避難を強いられました。国は住民の安全を考え、すぐさま30km圏内を封鎖。事故から1ヶ月経った4月22日、原発から20km圏を警戒区域として立ち入りを厳しく制限する。無人となった町で、水も餌も与えられない家畜や多くの生き物たちが餓死していきました。しかし警戒区域の中で、生き延びた“いのち“もありました。
ペットである犬猫や伝統行事・相馬野馬追に必要な馬は、地元や動物愛護団体の強い要望もあり、レスキューされていきました。しかし経済動物である牛や豚、鶏は食の安全を守るという大義の下、区域外への移動を禁止、全頭殺処分するよう農家に求めました。大半の農家は仕方なく応じましたが、十数軒の農家は同意しませんでした。
チェルノブイリ事故後、ウクライナ政府は軍隊に命じ、住民と共に家畜も区域外に移動させ保護しました。その前例を考えれば、自分たちの牛も圏外に避難できるはず…。“売り物にならないから殺処分”という考えには絶対に納得できないからです。殺処分を決めた国、それに応じた農家、反対する農家、それぞれが正しい決断をしました…が、そこには都会と地方という日本社会の歪みがありました。
貨幣経済に冒されてしまった日本人が生き物を慈しむ心…
牛に対する賠償金は東京電力から既に支払われたとはいえ、命ある被ばく牛をこの世から、全て消し去る必要はあるのだろうか? 「被ばく牛は原発事故の生き証人!」「牛が生きている限り、原発事故を忘れることはない!」と農家は言います。一部の放射線専門家も、「被ばくした生き物を経過観察することは、人類初の低線量被曝の解明に通じる重要な研究だ」と唱えています。しかしそれを公的に支援する仕組みを誰も唱えません。
国は全てをリセットしてから畜産を再開させることこそ復興への早道と考え、新しく出直す農家には手厚い補償を出します。2017年4月、避難指示解除準備区域と居住制限区域が解除され、住民に帰還を促し始めました。しかし高濃度の放射能が残る帰還困難区域は除染もされず、いつ帰還できるかの見通しすら立っていません。映画に登場する3軒の畜産農家は今もこの帰還困難区域の中に牛を生かし続けています。
事故から5年が経過。牛を生かし続けていた農家は、長引く避難生活、高齢化、さらには資金不足と次々に脱落、今は5軒(大熊町・池田牧場/富岡町・坂本牧場/浪江町・山本牧場&渡部牧場/浪江町・希望の牧場)となり、合計で約600頭の牛を守るだけになりました。(※池田牧場、山本牧場、渡部牧場は今も帰還困難区域内に位置する)
低線量被曝という科学的に解明されていないテーマへの挑戦
岩手大学、東北大学、北里大学等の合同研究チームは、空間線量がいまだ平均15μSv/hを超える浪江町・小丸地区(帰還困難区域)で、3年以上にわたる被ばく牛の調査研究を続けてきました。十数頭の被ばく牛に過去に事例がなかった原因不明の白い斑点牛が現れ、放射線との因果関係も研究されています。
20兆円という途方もない原発事故の処理費がつぎ込まれる中で、この研究に国は予算をつけません。農家も研究者も被ばく牛を人間のために役立てたいと、私費を投じてきました。牛1頭にかかる餌代だけでも年間約20万円。賠償金を切り崩して餌代に充てる農家と研究者は、それぞれが限界に近づいています。
『いのち』の重さは、ブータンからも教えられました!
2014年、総務省の支援を得て、日本人として初めて、ブータン国営放送と国際共同制作しました。日本とブータンの共通する伝統文化を題材とした1時間のドキュメンタリー番組4本を放送し、大きな反響をえました。この共同制作を通じて、ブータンという国の自然観や命に対する考え方がこの映画にも影響しています。
地球に棲むあらゆる生き物の命の重さは同じ…
人間の役に立たないという理由だけで、
生き物の命を絶つ権利が人間にあるのでしょうか?
敬虔なチベット仏教徒の国であるブータンでは輪廻転生という考え方に基づいて、人々は殺生を極端に避ける傾向があるとされている。亡くなった家族や知人が転生して、ハエや蚊などを含む、身の回りの動物となっているかもしれないからだ。輪廻転生を信じるからこそ、殺生を嫌い、野に咲く花も獲ることなく、蠅や蚊でさえ殺しません。
しかし元来、農耕と遊牧で暮らしていたブータン人は肉が大好き。肉の大半がインドからの輸入物で、屠畜はインド人やネパール人が行ないます。自分の手を汚さず、肉を食べる彼らは、その懺悔のためにお寺を訪れ、寄進します。こうしたことで、命あるものを慈しむ心を養っているのです。
また昭和以前には日本の農家では当たり前であった光景がこの国では見られます。ブータンでは牛は土地を耕す大切な労働力。チーズやバター等乳製品を生む大切な生き物、家族同様の存在。私自身が忘れかけていた日本の姿がフラッシュバックしました。さらにブータンでは牛が年老いて生乳が出なくなっても、鶏は卵を産めなくなっても殺しません。人間の役に立てなくなったら、山に帰してあげ、命を全うさせてあげる。命の重さと共に、幸せのありかたをも考えさせられる国でした。
2015年3月 ブータン中央部 ブムタンで畑を耕す牛と農家
映画製作への動機
ドキュメンタリーを作りたい!日本ではチャンスが無くても海外にはまだ残されている…その一念から2011年3月、ソウルで開催されたアジアのドキュメンタリー提案会議(ASD)に初参加。
世界にはドキュメンタリーの土壌がある。そう思って帰国についた翌日に311の東日本大震災が発生しました。
テレビ画面からは生々しい悲惨な状況が伝わり、身体が熱くなりました。福島第一原子力発電所の事故が追い打ちをかけ、東北で起きている現実は画面の中の遠い存在から、私の心へ矢を刺してきました。報道畑の人間でもなく、ジャーナリストでもない自分…しかし身体中の血が煮えたぎり、鎮めることはできませんでした。
行動あるのみ。後先を考えずに、30年前、祭り(相馬野馬追)の撮影で訪れた被災地・南相馬にと向かいました。そこで出会ったのが山本さんや吉沢さんたち、牛飼い農家でした…
頭をよぎった30年前に取材した相馬野馬追
311地震と津波、原発事故で開催が危ぶまれた相馬野馬追。今から30年以上も前に企業PRで撮影した迫力あるシーンが甦りました。6月に現地を訪問し、初取材。野馬追を取材する中で出会ったのが畜産農家の一人、吉沢さんでした。許可がないと入れない警戒区域の中で何が起きているのか…野馬追取材と並行して、被ばく牛と農家の取材を始めました。
取材した当初は巨大な権力に立ち向かう一人の牛飼いを主人公に描こうと考えていました。取材を進めていくうち、浪江町で原発を推進していた前の町議が、殺処分反対農家の中心人物であったこと。
これまでの自分の行為に矛盾を感じ、故郷を守ろうと行動していること。他にも黙々と牛を世話する数件の農家がいることを知り、静かな農家の思いも世間に届けなければならないと物語の方向性を変えることにしました。
本来は肉になる運命の牛…世間から見れば馬鹿げた行為に映る
殺処分に反対する農家が被ばく牛を生かす理由…それは、被ばくしたという理由だけで命を奪うのは忍びないから。畜産農家は、何年もの時間と労力、そして愛情を注ぎ、牛の品質改良を行ってきました。国が言う「全てをリセットする」の方針は、そう簡単なことではありません。これまで生活を支えてきてくれた可愛い牛たちを見殺しにして、自分達だけがやり直すなんてできない!その思いが彼らの行動を支えています。
牛1頭の餌代は年間約20万円。30頭いれば、年間500万円を超える餌代がかかります。農家は被災者でもあります。売り物にならない牛を生かす行為…本来なら牛肉として売られる運命にあったのだから…一般的には理解しづらい行為です。
この映画は、その答えを尋ね探し求める“旅”でもありました。そして見えてきたのです。私たち大半の日本人が忘れていた、「全てのいのち」を慈しむ心です。その慈悲の心を福島の農家の人々の中に息づいていることを感じました。
大阪から車を運転、片道850キロ。
福島往復、38回。取材日数述べ82日。収録時間、600時間以上。
半年以上の編集時間を費やし、多くの仲間に支えてもらいながら
5年の歳月と私費を投じた執念の力作!
4年間の取材でかかった実費600万円を使い果たし、資金が底を尽きかけた2015年夏。クラウドファンディングを利用して、200万円を集め、再び取材へ。NHKスペシャルを担当するテレビ業界の最前線で活躍する友人のバックアップ、さらにはヒューマンドキュメンタリー映画祭で20数年ぶりに再開した榛葉健監督が無償でプロデューサー役を買って出てくれました。
作品は私個人の思いだけではなく、多くのサポーターの思いを取り込んで、大きく育ちました。題字や音楽などの協力者も現れ、作品のクオリティーが磨かれました。私一人の自主制作で始まった映画が、テレビ界と映画界のプロのノウハウを結集したドキュメンタリー映画に育ちました。